2010年12月8日水曜日

NHK朝の随想金曜日NO,9~11

9 雑木工芸の心(11.26)
ある職人が言いました。同じ造作の建具を作る場合、10万円の材料で作れば50万円、100万円の銘木で作れば300万円の製品になるのだそうです。銘木で作るには、失敗できないという緊張感が大きいでしょう。時間も2倍かかるかもしれません。それにしても、銘木の力おそるべしであります。それで思い出したことがあります。私の父は木彫家でしたが、材料は主にクスやイチョウでした。それさえ買えない時にはタブなどの安い材料を使いました。作品は安くたたかれて、家族はいつも貧乏でした。あるとき、ビャクダンの仏像の注文が来ました。父のお供で材木店を探し回りました。やっと見つけましたが、あまりに高価なため、切れ端のような端材をまけてもらってやっと買うことができました。できた作品が高価で売れたことは今も覚えています。金持ちが道楽で作らせる高価な銘木彫刻は、作家にとっても魅力です。歴史に残る名品とは、そのようにして生まれたものでしょう。

しかし、私のスローガンは「生かす心と活かす腕」です。材木屋の片隅でいつまでも売れ残っている半端な板、製材所で切り落とされた根元の部分や柱を取った残りの背板といわれる部分や製材屑、公園や庭で切られた枝や幹など、建築材としては引き取り手の無い木材を工作に生かしたいという心です。生かそうという心で見つめると、何か作れるものが見えてきます。むしろ美しい木目があったり、面白い形があったりして、どう生かそうかと考えるのが楽しくなります。雑木も生かしようで価値あるものになります。
 半端な材料で作るには、それなりの腕が必要なので、日々努力しています。大いに腕を上げた会員もいれば、私のようになかなか腕は上がらない者もいます。できた作品の値段は、だいたい費やした時間で決めています。

 「生かす心と活かす腕」は、職員の指導や児童を支援するときの心でもあります。その人の個性や思いを尊重し、よさや特性を生かすように配置し、良い仕事、良い学びをさせて認めるということです。もうすこし早くこのスローガンを持っていたら、いい校長になれたかもしれません。





10 手作りアルプホルン(12.3)
 校長として初めて赴任したのは川口町立田麦山小学校です。地域の人とのかかわりを深めようと、山菜の会などを企画しましたが、もっと定期的なかかわりを持ちたいと企画したのが木工の会です。これだとお父さん方の参加も多いだろうとの含みもありました。木曜日の夜、図工室でやることになりました。20人ほどの会の名は「そまの会」、すぐに終わらないように、初回からアルプホルンに挑戦しました。大学時代の友達が始めたホルン作りが全国に広がりつつある時でした。頃は6月、材料となる杉の間伐をしました。雪国の山の斜面に生える杉は、雪に押されて根元が大きく曲がっています。適当な寸法の形のよいものを切り出して、プール脇で皮をむいていると、町長さんから電話が来ました。10月の町政35周年記念式典でアルプホルンを吹いて欲しいとのことでした。式典で何を披露しようかと悩んでいた町長さんは、会員からホルンの話を聞いて「それだ」と決めたようです。まだ何も作っていないのに、1年がかりで作ろうと思っていたのに、4ヶ月で演奏までとは無理な話、すぐに断りましたが、何としてもとの要請で困りました。演奏は友達とその仲間を呼んで一緒に吹けば何とかなる。工具や材料が揃えば作業効率は上がる、しかし先立つものが無い。教育長さんに相談すると「100万円あればできそうだと言いなさい」と知恵をつけてくれました。町長室でそれを告げると、出せないということでした。それならできませんと帰ってきましたが、すぐに助役さんがやってきて「出すからやって欲しい」との町長さんの言葉を告げられました。

 それからが大変。作業日を増やし、私は暇さえあれば遅れた会員のホルン作りを進めておきました。玄関先で作っていると、「用務員さん頑張ってますね」と来客が校長室に向かいました。7月末に22本が完成し、夏休みの暑いさなかに体育館で練習です。ところが、作った親たちの大半はプーとも音が出ません。急いで子供たちを募集して練習しました。心得のある人を仲間に加えました。こうして初舞台の記念式典は拍手のうちに終わりました。その後、あちこちから演奏依頼が来て、新聞・TVで活躍しましたが、演奏するのはいつも最初に覚えた5曲でした。正味5分で終わってしまうので、おしゃべりをはさんで長引かせました。へたくそな演奏のたびに、指揮をする私は冷や汗をかきましたが、少しも痩せませんでした。ホルンは今でも細々と続いています。



11 学校の統合(12.10)
 人々の都会志向と少子化で、学校の統合が進んでいます。統合には、大規模校への吸収統合、新しい校舎を建設する対等統合があります。私はどちらも経験しましたが、統合にいたるまでには長い時間がかかります。ごく小規模の学校でさえ、簡単にはいきません。住民が「やむなし」との心境になるまで待ちます。中越地震では、それが一気に進んで、かつて勤めた川口小学校の吸収統合は早まりました。
 
 教頭時代に対等統合を経験しました。これがなかなか難しい統合でした。吸収合併は絶対認めないという小規模戸石小学校と、吸収が当然という臼井小学校の、学区の対立はしぶといものでした。隣とはいえ経済圏が異なり、婚姻関係も少なく、あまり仲良しとはいえない歴史もあったからです。
戸石に野崎平松さんという老人がいました。学校の卒業式に使う松は野崎さんから借りるならわしがあり、教頭が借りに行くのです。高齢の平松さんは、ほとんどの時間をベッドで過ごしていました。私が行くとどうしても上がれと言ってベッドの脇に座らせて、昔の話や近頃の話を私に聞かせます。野崎さんの親は大きな博労で、平松さんは若い頃よく一緒に馬市に行ったそうです。そこには西山町の小さな博労、田中角栄さん親子も来ていたそうです。兄貴分の平松さんは、角栄さんを弟のようにかわいがったそうです。長じて、角栄さんは総理大臣にもなりましたが、親しい交流はずっと続いたそうです。その平松さんが戸石小学校の出身で、長らく市会議員をしていました。白根の洪水を米蔵の米俵で防いだ伝説の人でもあります。そして、統合反対の陰の旗頭だったのです。

 「野崎さん、戸石の意地はわかりますが、子供のためには統合したほうがいいと思いますよ。反対期成同盟を推進同盟に切り替えたらいかがですか?時代が統合に向かって流れていくことは、野崎さんはにわかっているでしょう。しこりを残さないリーダーシップを発揮するときではないですか」。それからしばらくして、統合が決まりました。これで単身赴任が終わって長岡に帰れると思ったのに、まさか統合校に異動とは驚きました。数年後、野崎さんが亡くなったことを知りました。葬儀には、歌手の小林幸子さんが来て、何曲も歌ったそうです。歌手を続けられたのは身内である野崎さんの支援があったからだと聞きました。